この記事では、小野小町がなぜ世界三大美女と言われるようになったのか、その謎について解説します。

小野小町の顔を見て、「美人だな~」と思う人います?

もちろんこの顔も小野小町本人かどうかなんて誰にもわかりません。

ちなみに、こちらは紫式部。

同じような顔ですね・・・

小野小町は平安時代前期の人、紫式部は平安時代中期の人なので、小野小町のほうがちょっと先輩です。

話しがそれましたが、小野小町が美人だったというのは伝説です。

そもそも、平安時代に貴族の女性が多くの人に顔を見せる機会は、ほとんどなかったようです。

それにも関わらず、美女と言われるとは不思議ですね。

いったい、いつ頃から、小野小町は世界三大美女と言われるようになったのでしょうか?

小野小町が世界三大美女と言われるようになったのはいつ頃?

小野小町が世界三大美女と言われるようになったのは、明治時代です。

明治21年(1888年)には読売新聞の社説に書かれているそうです。

その社説に世界三大美女として、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町があげられていたそうです。

これって、明治時代の日本人が勝手に決めた世界三大美女っぽいですね。

なぜ小野小町が世界三大美女に選ばれた?

では、なぜ小野小町が世界三大美人に選ばれたかについてです。

さきほども書きましたが、小野小町が美人であったというのは、あくまでも伝説です。

世界三大美女の話が出たのは、明治時代と書きました。

この時代、日本はどんな状況だったでしょうか?

欧米の列強に負けないように、富国強兵政策をとっていました。

そして日清戦争、日露戦争に向かっていく時期ですね。

戦争のときって、ナショナリズムが高まるじゃないですか。

太平洋戦争のときも、そうだったみたいだし。

ナショナリズムが高まって、「日本すげー」と思いたかった人たちが、和歌の名人であった小野小町を引っ張り出してきたのではないかということです。

別に、紫式部でも、清少納言でもよかったと思いますけど。

小野小町は本当に美人だったのでしょうか?

小野小町が美女と言われ始めたのは、明治時代で、ナショナリズムの高まりで三大美女に選ばれたと説明してきました。

小野小町は美女と勘違いされていた?

小野小町が美女という話は、もともとは別の人物と間違って、広まったのではないかと言われています。

平安後期の作品と考えられる『玉造小町子盛衰書』という書物があります。

この本は、美女が落ちぶれる姿を書いた本。

この本の主人公が「小町」というのですが、小野小町と混同されたんですね。

小野小町は美人だったと思う理由

しかしですね、私自身は、小野小町は美人だったのではないかと思っています。

もちろん、平安当時の美人という意味で。

その理由は2つあります。

小野小町が詠んだ歌から美人と思えるワケ

小野小町の歌で有名なのが次の歌です。

「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」。

小倉百人一首に収録された小町の歌です。

この歌の意味は、「長雨をぼんやりと眺めているうちに、花の色が色褪せちゃった」という意味です。

字面をとらえると、そのような意味になりますが、真の意味は違います。

真の意味は、「いつの間にか、私の美しさも、この花と同じように色褪せちゃった」ということです。

これ、相当自分に自信がないと詠めない歌ですよね。

これだけ自信があるということは、本当に美女だったのだろうと思うのです。

かなりのナルシストであったかもしれませんね。

小野小町のエピソードから美人と思えるワケ

小野小町にはこんなエピソードがあります。

深草少将(ふかくさのしょうしょう)という人物がいました。

彼は小野小町に恋い焦がれて求愛します。

しかし小町は「百夜通い続けたら契りを結ぶ」と告げたのです。

彼は、毎晩通い続けますが、九十九夜まで通ったところで、事件が起こります。

大雪のために深草少将が凍死してしまったのです。

残念ながら契りを結ぶことはできませんでした。

しかし、九十九夜も通い続けるということは、小町はかなり魅力的だったということでしょう。

小町と契りを結んだ男たちが「小町、めっちゃ美女」と口コミしていったんでしょうね。

そんな噂を聞いたからこそ、深草少将は九十九夜まで通いつめたのでしょう。

(たんなる妄想ですよ?)

小野小町ってどんな人だったの?

そんなエピソードのある小野小町ですが、実際にはどんな人物だったのでしょう?

平安初期の人物と言われているだけで、詳しいことは何もわかってはいません。

ただ、仁明天皇(にんみょうてんのう)に仕えていたのではないかと言われています。

仁明天皇は第54代天皇です。

9世紀初期から中期にかけての天皇です。

小町と年代的にはあっていますね。

天皇に仕えるくらいですから、やはり小町は美しい女性だったのでしょう。

宮中では多くの男から好意を持たれますが、誰にもなびかなかったと言われています。

小町の歌は百人一首に選ばれるだけでなく、六歌仙や、三十六歌仙にも選ばれるという才能の持ち主だったんですね。

才色兼備の歌人だったのでしょう。

ちなみに、六歌仙とは、紀貫之という人が選んだ平安時代の優れた歌人6人のこと。

三十六歌仙とは、藤原公任という人が選んだ平安時代の代表的歌人36人のこと。

小野小町の最期は悲惨だった

そんな才色兼備の小町でしたが、その最期は悲惨だったようです。

宮廷で華やかな生活を送っていた小町ですが、仁明天皇が崩御すると宮廷を去り、放浪の旅に出ました。

80歳のとき京都の補陀洛寺(ふだらくじ)という寺にたどりつきます。

そして、このお寺で亡くなったと伝えられています。

補陀洛寺には小町の晩年の像があります。

その像は、絶世の美女としての小町ではなく、老婆の姿の像です。

しかもどういうわけか、小町の亡骸はこの地で野ざらしにされたみたいですね。

ちゃんと葬ってあげてよ、と思いますが。

平安時代の美女の条件とは?

平安時代、美女の条件とされたのは、白い肌、長い黒髪、下膨れ、おちょぼ口、細い目、小さい鼻、というところ。

まさにこの顔です。

そしてモテる条件としては、顔だけでなく、教養も必要だったみたいですね。

平安時代の貴族の女性は、ある年齢以上になると、男性に顔を見せず、引きこもっていたようです。

そんな状況で女性がアピールするための武器が「歌」だったんですね。

さきほど、小町の歌を紹介しましたが、男性たちは、女性が詠む歌から、その容貌を想像していたのかもしれません。

そして、女性のもとに通い詰めて契りを結んだ男性が口コミしたと。

そんな感じではなかったかと思うのです。

歴史って、証拠となる資料を集めるのも大切だけど、人間の感情を想像したほうが楽しいですよね。

まとめ

●小野小町の顔は実はわからない
●小野小町が世界三大美女と言われるようになったのは明治時代
●小野小町が世界三大美女に選ばれたのはナショナリズムの都合
●でも本当に美人だったと思う
●それは彼女の詠んだ歌と、九十九夜も彼女のもとに通った男がいたから
●小町は天皇に仕える身分で華やかな宮廷生活を送っていた
●天皇崩御をきっかけに放浪の旅に出たはいいけど、悲惨な最期だった

以上、小野小町の顔は不明なのに世界三大美女と言われた理由などについてでした。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

他にも気になる記事があったら、読んでくれると嬉しいです。