梨園とは? 意味 歌舞伎俳優の社会(一般社会の常識とかけ離れた特殊社会)を指す言葉
由来 およそ1300年前の中国は唐の時代の玄宗皇帝の故事

梨園りえんの由来となった「玄宗皇帝の故事」について詳しく知りたい方は続きを読んでみてください。

梨園の由来

梨園の由来となった玄宗皇帝の故事とは?

今から約1300年前、お隣の中国は唐の時代。その第9代の皇帝を玄宗皇帝といいます。

名君として唐の絶頂期を支えました。

芸能好きだった唐の玄宗皇帝は、宮廷内のを植えた庭で、音楽や演劇の脚本などについて自ら弟子に教えました。

弟子たちは「皇帝梨園弟子(こうていりえんていし)」と呼ばれました。

梨を植えた庭で芸能スクールみたいなことをやっていたことから「梨園」と呼ばれるようになったんですね。

日本で梨園と言われるようになったのは江戸時代

歌舞伎社会のことを日本で梨園と呼ぶようになったのは江戸時代です。

由来となった玄宗皇帝が即位していたのは、ウィキペディアによると712年9月8日~756年8月12日となっています。

つまり、梨園という言葉が日本で使われたのは、玄宗皇帝の時代から約1000年後だったということになります。

梨園と言い出したのは漢学者

玄宗皇帝が梨を植えた庭園で音楽や演劇を教えたという故事から、江戸時代の漢学者が歌舞伎界のことを梨園と呼ぶようになり、それが定着しました。

漢学者とは、江戸時代に、中国伝来の学問を研究した人のことです。国学・洋学(蘭学)に対して、中国の書物から中国の古典思想を学ぶのが漢学でした。

漢学者は数多くいましたが、「梨園」と言い出したのが誰であったかは明確になっていません。

梨園を作った玄宗皇帝ってどんな人?

ここまでで「梨園」とは何か?どんな由来があるのかについては、おわかりいただけたと思います。

ここからは梨園を作った玄宗皇帝という人について説明します。

玄宗皇帝は唐の絶頂期の皇帝

玄宗皇帝は、中国の唐の時代の第9代皇帝です。

皇帝になった前半は「改元の治」といわれる善政を行う優秀な君主だったようです。

唐の時代の絶頂期を作った皇帝と言われています。

しかし、絶頂ということは、その後は落ちていくということでもあります。

凋落の原因は世界三大美女と呼ばれる楊貴妃に溺れたことでした。

玄宗皇帝を虜にした楊貴妃

楊貴妃はクレオパトラ、小野小町とともに世界三大美人として有名です。

さらに、中国でも四大美人というのがあって、その一人だそうです。

楊貴妃は胡旋舞(こせんぶ)という踊りの名人だったと言われています。

胡旋舞(こせんぶ)とは、サマルカンド地方に住むソグド人から伝わった舞踏。唐で流行したようです。

芸能に興味関心があった玄宗皇帝ですから、楊貴妃のその踊りと美しさにコロッとやられました。

楊貴妃は、梨園の舞台で、技を磨き玄宗皇帝を虜にしたと言われています。

有名な梨園の妻一覧

梨園の妻とは、歌舞伎俳優と結婚した女性のことです。

藤原紀香さんや、亡くなった小林麻央さんが有名ですね。

有名な梨園の妻を一覧にしてみました。

梨園の妻
三田 寛子 八代目 中村芝翫(三代目 中村橋之助)
前田 愛 六代目 中村勘九郎
藤原 紀香 六代目 片岡愛之助
扇 千景 四代目 坂田藤十郎(2020年11月12​日死去)
富司 純子 七代目 尾上菊五郎

梨園の妻には序列がある

梨園の妻を上記一覧にしましたが、実は梨園の妻には序列が存在します。

序列の高い順に梨園の妻を一覧にすると下記のようになります。

梨園の妻
富司 純子(女優) 七代目 尾上菊五郎
波野 知佐(母親である藤間正子さんの遠縁) 二代目 中村吉右衛門
武者小路有紀子(武者小路実篤の孫) 四代目 中村 梅玉
片岡博江(小学校の同級生) 十五代目 片岡 仁左衛門
藤間紀子(女性実業家) 二代目 松本 白鸚(九代目 松本 幸四郎)

さきほど有名な梨園の妻としてあげた、三田寛子、前田愛、藤原紀香は出てきませんね。

序列はそれほど高くないということです。

梨園の妻の序列はいったいどうやって決まるのでしょうか?

梨園の妻の序列はどうやって決まる?

梨園の妻の序列は、夫である歌舞伎役者の格によって決まります。

夫の格が高ければ、妻の格も高くなります。妻の名声などは関係ありません。

では歌舞伎役者の格はどうやって決まるかというと、家柄と人気(どれだけ客を呼べるか)で決まります。

歌舞伎の家柄ランキング

歌舞伎の家柄は100種類以上あると言われています。

代表的な家柄と屋号、主な役者は下記の通りです。

屋号 家柄 主な役者
成田屋
(なりたや)
市川家 市川團十郎・市川海老蔵
音羽屋
(おとわや)
尾上家 尾上菊五郎・尾上菊之助・尾上松也
高麗屋
(こうらいや)
松本家 松本白鸚・松本幸四郎
中村屋
(なかむらや)
中村家 中村勘三郎・中村勘九郎
大和屋
(やまとや)
坂東家 坂東玉三郎・坂東巳之助
成駒屋
(なりこまや)
中村家 中村歌右衛門・中村芝翫
松嶋屋
(まつしまや)
片岡家 片岡仁左衛門・片岡秀太郎・片岡愛之助

歌舞伎の家柄の格付けは歴史の長さによって決まります。

家柄の中でも最上位にあたると言われる市川家。

家柄だけなら、歌舞伎役者の格付けトップは市川海老蔵となりそうです。

しかし、現在は市川家のトップである團十郎が不在。

今の海老蔵が團十郎を襲名すれば、格付けトップになりますが、現在は他の役者の方が格上になります。

歌舞伎役者のランキング

では、どうやって格を決めているかというと、歌舞伎俳優で構成される公益社団法人 日本俳優協会の役員一覧にそのヒントがあります。

役員は次のようになっています。

理事長 尾上 菊五郎
専務理事 中村吉右衛門
財務理事 中村 梅 玉
常任理事 片岡仁左衛門
坂東 玉三郎
松本 白 鸚(松本幸四郎)

(参照:日本俳優協会ホームぺージ

理事長がトップ。普通に見れば、この順番が序列を表しているでしょう。

常任理事が3名いますが、この3名は同格ということができます。

梨園の妻の格付けは、上記の俳優の格付けによって決まると言えます。

梨園の妻の世界にはいじめがあるの?

いじめと捉えるか、教育的指導と捉えるかは、人によって違うでしょう。

しかし、梨園の妻の世界におけるいじめの事例としてよく取り上げられるのが、香川照之の元妻でCAだった知子さんの事例です。

  • 先輩妻たちに挨拶をしても無視される
  • 息子の影口を言われる

このようなことが重なって、知子さんは香川照之と離婚したと言われています。

真相は本人たちにしかわかりませんが、人間が集まってできる集団ではいじめの問題はなくならないのかもしれません。

梨園の妻になるには?

梨園の妻になるにはどうすればいいでしょうか?

先ほどあげた梨園の妻一覧を見ていただければわかる通り、梨園の妻は「有名人」か「名門の一族の子女」です。

女優、アナウンサー、芸事のプロフェッショナルなどで有名になることが梨園の妻になる一番の近道ですね。

梨園の妻の役割

梨園の妻の役割は大きく2つあります。

秘書的役割

  • ご贔屓筋のお客様への挨拶
  • 夫のスケジュール管理

後継である男の子を授かり育てる

男の子が生まれれば、その子は跡取りです。

歌舞伎俳優としての自覚を促し、習い事の送迎も必須です。

男の子が生まれなければ、養子を取るなどして家を守ります。

歌舞伎の起源と変遷

日本の歌舞伎の起源についても簡単に触れておきましょう。

歌舞伎の起源は、出雲の阿国おくにの歌舞伎踊りとされていますが、源流をたどると室町時代に流行した「風流ふりゅう踊り」にたどり着きます。

歌舞伎のはじまりは出雲の阿国の興行

歌舞伎の起源は、1603年の出雲の阿国(おくに)グループによる興行だとされています。

阿国(おくに)は、「出雲の」と言われるように、出雲大社の巫女であったと言われています。

阿国の集団は、出雲大社の本殿修復のための寄付を集めるために全国を回っていました。

京都で寄付集めの集客のため、派手な衣装で披露した踊りが歌舞伎の起源とされています。

阿国は「ややこ踊り」の名手だった

阿国は「ややこ踊り」の名手でした。「ややこ」とは童女のこと。

文献上、最初に「ややこ踊り」が記録されているのが『御湯殿上日記』。

1581年に宮中で踊ったと記録されています。

はじめは文字通り幼い女の子の踊りのことした。そこから意味が拡大して、女性が小唄を歌いながら踊る「小歌踊り」となりまます。

小唄を歌いながら、二人もしくは数人で振りを揃えて踊っていたとされています。

「ややこ踊り」で男装した阿国

「当代記」という資料には次のようなことが書かれています。

”出雲の国の巫女で、名前を国というものが、異形な男のまねをして、刀と脇差を差して、茶屋の女と戯れる真似をした。”

阿国は「ややこ踊り」の中でも、当時宮廷の若者たちの間で流行していた異様な姿を真似して踊ったことで評判を呼びました。

江戸幕府によって禁止された歌舞伎

阿国の歌舞伎踊りは評判となり、1603年には京都で大変な人気を得ていたという記録があります。

やがてその評判は江戸にも届き、人気にあやかろうと多くのかぶき踊り集団が出現しました。

しかし女性が演じる歌舞伎はきわどい演出のものも多く、風紀を乱すとして江戸幕府が禁止してしまいます。

女歌舞伎から若衆歌舞伎へ

女歌舞伎が禁止されると、変わって人気になったのが若衆わかしゅ歌舞伎と呼ばれるものです。

今でいうジャニーズでしょうね。元服前の前髪をつけた美少年を中心とする一団による歌舞伎です。

しかし若衆歌舞伎も、男色を好む人によって、若衆が買われるという事態が起こったため、幕府により禁止されました。

若衆歌舞伎から野郎歌舞伎へ

若衆歌舞伎が禁止されて、紆余曲折があったようですが、歌舞伎として上演していいよと許されたのが野郎歌舞伎です。

若衆の前髪を剃り落とすこと、売色的な雰囲気をなくすこと(セクシー系はダメということ)を条件に野郎歌舞伎が上演されるようになります。

女歌舞伎が禁止されてから、野郎歌舞伎になり、男だけで演じる中で女形が生まれました。

こうして演劇的な要素が強くなった江戸時代の歌舞伎が、現代につながっています。

「歌舞伎」と呼ばれるようになった理由

歌舞伎と呼ばれるようになった理由については2つの説があります。

①「かぶく」が語源である説

「かぶく」という言葉は、「傾く」と書いてあるように、真っすぐでないことを表しています。

真っすぐでない→異様→派手な格好、異形の風体をする者、というふうに意味が派生しました。

阿国が異形な恰好をして踊ったことから、「かぶきもの」と呼ばれるようになったという説です。

②「歌」を歌いながら、「舞」う「技」を称えて、「歌舞伎」と呼ばれるようになった説

こちらの説はわかりやすいですね。

歌舞伎の語源「傾く(かぶく)」とは?

江戸時代に爆発的な人気を博した歌舞伎ですが、語源は「傾く(かぶく)」であるという説を紹介しました。

今では「かたむく」と読みますが、そのイメージ通り、真っすぐでないことです。

そこから転じて、並み外れたもの、常軌を逸するものといった意味になりました。

アウトロー的な意味合いです。髪型、衣装など外面だけでなく、精神的な面についても、奇抜な人のことを「かぶきもの」と呼ぶようになったみたいです。

歌舞伎の語源となった「傾く(かぶく)」という言葉はとても面白いですね。詳しく知りたい方は下記の記事を読んでみてください。